焦土から、コンパクトシティへ ── 戦後日本のまちづくり八十年
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焦土から、コンパクトシティへ ── 戦後日本のまちづくり八十年
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この記事の要点
- 戦後の都市計画法制は、そのつどの危機に応答する形で四度書き換えられた(復興・抑制・保全・集約)
- 戦災復興計画は当初 約594km²・145億円だったが、ドッジ・ラインにより約284km²・105億円まで削られた。いま各地に残る「途中で終わった幹線道路」の多くはこの縮小の跡である
- 1968年の線引きが「禁止」で膨張を止めたのに対し、2014年の立地適正化計画は「誘導」で集約する。強制力がない分、時間軸が長い
市街化調整区域や区画整理の相談を受けていると、「なぜこの制度は、こういう形をしているのか」という疑問に行き当たります。
条文を読んでも、そこには答えがありません。答えは、その法律がつくられたときに何が起きていたか、のほうにあります。
この記事は、1945年から現在までの八十年を四つの時期に区切って、都市の状況がどう変わり、法制度がどう応答してきたかをたどったものです。明治から戦前までの流れは日本の都市・建築法制 百年の軌跡で扱いました。
- 軌跡の概観 ── 四つの時期
- 第1期 戦災復興 ── 焼けた面積が先にあった
- 理想と現実の相克 ── 幻となった壮大な都市構想
- Case Study 1 名古屋 ── なぜ100m道路が通せたのか
- 第2期 高度経済成長 ── 旧法では受け止められなかった
- 1968年「新都市計画法」── 線引きという発明
- 1969年「都市再開発法」── 売り買いせずに、組み替える
- 第3期 成熟と質の追求 ── 点から、面へ
- 第4期 人口減少と超高齢社会 ──「都市のスポンジ化」
- 2014年「立地適正化計画」── 禁止ではなく、誘導
- 目指す都市構造 ──「お団子と串」
- Case Study 2 富山 ── 百年の分断を解く
- 四期のまとめ ── 何が変わってきたのか
- 結び ── 制度は、危機のあとに書き換えられる
- 参考文献・出典
軌跡の概観 ── 四つの時期
戦後の都市計画法制は、単なる物理的建設の結果ではなく、戦災からの復興、高度経済成長、成熟、そして人口減少という劇的な社会環境の変化に対して、そのつど応答してきた記録として読むことができます。
四つの時期と、それぞれの中核となった法律はこうなります。
- 第1期(1940年代〜)戦災復興。焦土からの骨格形成 ── 特別都市計画法
- 第2期(1960年代〜)高度経済成長。都市膨張と無秩序の抑制 ── 新都市計画法
- 第3期(1990年代〜)成熟。景観と歴史的価値の再評価 ── 景観法・歴史まちづくり法
- 第4期(2010年代〜)縮退。人口減少下の都市集約 ── 立地適正化計画
四つは並んでいるように見えますが、それぞれ別の問題に、別の法律で答えている。ここを混ぜて理解すると、制度の趣旨を取り違えます。
第1期 戦災復興 ── 焼けた面積が先にあった
この未曾有の危機に対し、終戦直後の1945年11月には内閣直属の「戦災復興院」が設立され、翌年には国家的プロジェクトとして「特別都市計画法」が公布された。
太平洋戦争により、全国115以上の主要都市が焦土化しました。罹災面積は約630km²。東京23区の面積を超えます。
動きは早い。終戦が1945年8月。その3か月後の1945年11月には内閣直属の「戦災復興院」が設立され、翌1946年9月に「特別都市計画法」が公布されました。一年余りで、国家的プロジェクトの枠組みができています。
ここで押さえておきたいのは順序です。焼けた面積が先にあり、法律はその後を追った。この順序は、以後も繰り返されます。関東大震災のあとに区画整理の技術が定着し、スプロールが深刻化してから線引きが導入され、空き家が問題になってから空家法ができた。都市計画法制は、たいてい後追いです。
理想と現実の相克 ── 幻となった壮大な都市構想
しかし、激しいインフレ収束を狙うGHQの「経済安定9原則(ドッジ・ライン)」により、超均衡財政方針が敷かれ、計画は大幅な縮小を余儀なくされた。
の圧力
計画が悪かったのではなく、財政の都合で途中で止まったものである。
当初の復興計画は、国を挙げた壮大なものでした。広幅員道路と緑地の確保を理想とし、対象面積 約594km²、総事業費 145億円。
ところが、激しいインフレの収束を狙うGHQの「経済安定9原則」──いわゆるドッジ・ラインにより超均衡財政方針が敷かれ、計画は大幅な縮小を余儀なくされました。1949年の見直し後は約284km²、105億円。面積はおよそ半分に、事業費は三割近く削られています。
この数字は、実務でときどき出会う光景を説明します。地方都市に行くと、途中で不自然に細くなる幹線道路や、都市計画決定はされているのに何十年も未着手のままの道路に出会います。
計画が悪かったのではなく、財政の都合で途中で止まった。そう理解すると、いま残っている都市計画道路の見直し議論の意味も違って見えてきます。
面積・事業費の数値は元資料に示されたものです。戦災復興計画の規模は集計の範囲によって異なる数字が示されることがあります。個別の都市について確認する場合は、当該自治体の都市計画資料をご覧ください。
Case Study 1 名古屋 ── なぜ100m道路が通せたのか
幅員100mの幹線道路(久屋大通・若宮大通)や公園の整備は、半世紀を経て、現在の都市骨格となっている。
同じことを、いまの市街地でやるのは事実上不可能に近い。
縮小の波に抗って、独自に事業を完遂した都市があります。名古屋市です。
事業面積 約3,452ha。移転戸数 約43,731戸。事業期間 36年。日本最大級の土地区画整理事業でした。
この事業で通されたのが、幅員100mの久屋大通と若宮大通です。半世紀を経て、いまの名古屋の都市骨格になっています。
ここで考えたいのは、なぜそんな道路が通せたのかということです。
答えは身も蓋もありません。焼け野原だったからです。建物がなく、権利関係が動かしやすい時期に、四万戸を超える移転を伴う区画整理をやり切った。
逆に言えば、同じことをいまの市街地でやるのは事実上不可能に近い。区画整理が難しくなったのは技術が落ちたからではなく、動かすべき権利の数と密度が当時とまったく違うからです。
第2期 高度経済成長 ── 旧法では受け止められなかった
「スプロール現象」が深刻化し、交通渋滞や公害など、都市環境の悪化が国家的課題となった。
1960年代、産業発展に伴って農村部からの急激な人口移動が起きます。そこで生じたのがスプロール現象でした。
虫食い状の開発。農地と宅地が混在し、まとまった市街地になりません。
インフラの後追い。道路・上下水道が住宅の立地に追いつかず、あとから高い費用で整備することになります。
公害と渋滞。モータリゼーションと工場立地が、生活環境を直撃しました。
問題は、当時の法律がこれを扱えなかったことです。1919年の旧都市計画法は「重要施設をつくる」ための法律でした。道路や水路を個別に整備する仕組みであって、面的に広がっていく市街地そのものをコントロールする発想がない。
この不足が、1968年の全面改正につながります。
1968年「新都市計画法」── 線引きという発明
「市街化区域(優先的に市街化を図る)」と「市街化調整区域(市街化を抑制する)」を明確に区分する「線引き」と、開発許可制度が誕生した。
おおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域
無秩序な市街化(スプロール)を防止する防波堤
当時の人口急増の予測を前提にした線が、そのまま残っているのが現状である。
大正期から続く旧法を全面的に見直し、都市の無秩序な膨張を法的に制御するゾーニング制度が創設されました。
市街化区域。すでに市街地を形成している区域、およびおおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域。
市街化調整区域。市街化を抑制すべき区域。無秩序な市街化を防止する防波堤です。
この二つを明確に区分する「線引き」と、それを担保する開発許可制度が同時に誕生しました。制度の詳しい仕組みは都市計画法の全体像で扱っています。
実務の側から見ると、この一本の線が、いまも土地の値段と使い方を決めています。そして厄介なのは、五十年以上たっても引き直されていない場所が多いことです。当時の人口急増の予測を前提にした線が、人口が減りはじめた地域にもそのまま残っている。この歪みがどう現れたかは、新産業都市が残したもので四つの現場から見ました。
1969年「都市再開発法」── 売り買いせずに、組み替える
これに対し、土地と建物の「権利関係」という画期的な手法を用い、細分化された敷地を統合して建築物と公共施設を一体的・立体的に整備する制度が登場した。
膨張を抑え込まれた既成市街地では、過密化と不合理な土地利用の解消が急務になりました。外へ広げられないなら、内側を作り替えるしかありません。
そこで登場したのが権利変換という手法です。
細分化された敷地には、それぞれ所有者がいて、借地人がいて、借家人がいます。これを一つずつ買い集めるのは現実的ではありません。そこで土地の権利を、新しい建物の床の権利に置き換える。土地を売り買いせずに、権利のまま組み替えるわけです。
この発想が、いまの市街地再開発事業の芯にあります。再開発が合意形成の勝負になるのは、この構造からきています。金額の交渉ではなく、権利の交換条件の交渉になる。
第3期 成熟と質の追求 ── 点から、面へ
2004年に「景観法」、2008年に「歴史まちづくり法」が制定され、単体の文化財保存から、周辺市街地を含めた面的な維持向上へとパラダイムが移行した。
守る対象に「そこで暮らす人の活動」が入ったことが、この時期の一番の変化である。
経済成長が落ち着きを見せた1990年代以降、画一的な開発への反省から、地域の個性や美しい景観を求める市民意識が高まります。
2004年、景観法。良好な景観の形成を、はじめて法律の目的として位置づけました。
2008年、歴史まちづくり法。歴史的建造物と、その周辺の環境・営みを一体で守る仕組みです。
この時期の一番の変化は、守る対象の単位が変わったことだと思います。
それまでの文化財保護は、建物という「点」を指定して守るものでした。ここで出てきた「歴史的風致」という概念は、歴史上価値の高い建造物と、そこで営まれる人々の活動が一体となった市街地の環境を指します。
守る対象に「そこで暮らす人の活動」が入った。建物だけを残しても、祭りや商いが絶えれば風致は失われる、という認識です。
第4期 人口減少と超高齢社会 ──「都市のスポンジ化」
拡大を続けた市街地の内部で、空き家や空き地が時間的・空間的にランダムに発生する「都市のスポンジ化」が進行する。
分母だけが減り、分子は残る。これが縮退期のいちばん厄介なところである。
そしていま、縮退の時代に入りました。
ここで起きているのが都市のスポンジ化です。拡大を続けた市街地の内部で、空き家や空き地が時間的・空間的にランダムに発生していく現象を指します。
厄介なのは、その現れ方です。市街地の縁が縮むのではなく、内側に穴が開く。どこが空くか予測できないため、まとめて手当てすることができません。
結果として何が起きるか。低密度化により、一人あたりのインフラ維持コストが増大し、生活サービスの維持が難しくなります。
人口が半分になっても、道路や水道の総延長は半分にはなりません。分母だけが減り、分子は残る。これが縮退期のいちばん厄介なところです。
2014年「立地適正化計画」── 禁止ではなく、誘導
居住や、医療・福祉・商業などの生活利便施設を、公共交通と併せてまちなかの拠点へと緩やかに「誘導・集約」していく。
強制力がない分、効きが遅い。だからこそ二十年、三十年という時間軸で書かれている。
スポンジ化する都市機能の拡散を防ぐため、都市再生特別措置法が改正され、立地適正化計画が創設されました。
設定するのは二つの区域です。居住誘導区域で人口密度を維持し、都市機能誘導区域に医療・商業・福祉などを集める。それらを公共交通で結んで、新しい都市構造をつくる。
ここで実務上いちばん大事なのは、1968年の線引きとは、効かせ方がまったく違うということです。
線引きは禁止によって市街化を止めました。調整区域では原則として建てられない。強い制度です。
立地適正化計画は補助や容積の緩和によって、移ってもらう方向に誘導します。強制力はありません。その分だけ効きが遅く、だからこそ二十年、三十年という時間軸で書かれています。
区域の外に住んではいけない、という制度ではない。ここを誤解したまま説明すると、住民の合意は得られません。説明の場をどう設計するかはまちづくりファシリテーションで扱っています。
目指す都市構造 ──「お団子と串」
歩いて暮らせる高密度な生活拠点(お団子)を、利便性の高い公共交通ネットワーク(串)で結びつける。
端まで道路と水道を延ばし続け、維持費だけが積み上がる
拠点の中は歩いて用が足り、拠点の間は乗って移動する
スポンジ化に対抗する都市像として示されているのが、多極ネットワーク型コンパクトシティです。
歩いて暮らせる高密度な生活拠点をお団子、それを結ぶ利便性の高い公共交通ネットワークを串に見立てます。拠点の中は歩いて用が足り、拠点の間は乗って移動する。
この形の要点は、「多極」という部分にあります。
中心をひとつに絞る単心型のコンパクトシティは、結果として周辺部を切り捨てることになります。合併して広くなった市では、旧町村部がまるごと対象外になりかねない。複数の拠点を残すという設計が、政策として成立するかどうかの分かれ目になります。
Case Study 2 富山 ── 百年の分断を解く
2020年3月、LRT(次世代型路面電車)の南北接続によって解いた。
「串」が
通った
コンパクトシティの先駆けとして知られる富山市に、象徴的な事例があります。
明治41年(1908年)の鉄道開通以来、市街地は南北に分断されていました。駅の北と南を行き来するには、大きく迂回するか地下道を通るしかありませんでした。「南北の壁」と呼ばれた百年来の課題です。
これが2020年3月、LRT(次世代型路面電車)の南北接続によって解かれました。駅の北側の路線と南側の市内電車がつながり、一本の「串」が通ったことになります。
百年前に鉄道が引いた線が、まちを二つに分けていた。それを一世紀かけて解いた。都市の骨格は、一度決まると簡単には変わらないという事実と、それでも変えられるという事実の、両方を示す事例だと思います。
元資料には路線図が添えられていましたが、実在しない区間を含む図であったため、本記事では接続の構造のみを模式的に示しています。路線の延長や区間は、富山市および事業者の公表資料でご確認ください。
四期のまとめ ── 何が変わってきたのか
(1940s)
(1960s)
(1990s)
(2010s)
八十年を一枚に置き直すと、四つの時期がそれぞれ違う問題に違う手段で答えてきたことが見えます。
- 社会環境。焦土化 → 急激な人口集中 → 価値観の成熟 → 人口減少・超高齢化
- 都市の課題。物理的骨格の喪失 → スプロール化・過密 → 景観・歴史の破壊 → 都市のスポンジ化
- 中核の法制度。特別都市計画法 → 新都市計画法(線引き) → 景観法/歴史まちづくり法 → 立地適正化計画
- 目指した空間。広大なインフラ整備 → 無秩序の抑制と立体化 → 歴史的風致の面的保全 → お団子と串
焦土の「復興」から、スプロールの「抑制」、景観の「成熟」、そして人口減少下の「集約」へ。つくる → 止める → 守る → 畳む、という順に変わってきたと言い換えることもできます。
結び ── 制度は、危機のあとに書き換えられる
応答する形で書き換えられてきた
四つはどれも、その時点でいちばん切実だった問題への答えだった。いま私たちが手にしている制度は、その積み重ねである。
都市計画法制は、その時代の危機に応答する形で書き換えられてきました。
焦土に線を引くこと。膨張を止めること。景観を守ること。そして縮んでいく市街地を管理すること。
四つはどれも、その時点でいちばん切実だった問題への答えでした。いま私たちが手にしている制度は、その積み重ねです。
だから、条文の意味がわからないときは、それが書かれた年に何が起きていたかを見るのが近道になります。調整区域の厳しさは1968年の人口急増から来ていて、立地適正化計画の弱さは2014年に強制力を使えなかった事情から来ている。
そして、いま新しく書かれつつある制度も、五十年後には「なぜこういう形なのか」と問われることになります。その答えは、いまの人口曲線の中にあります。
自分の市町村を読むときの確認ポイント
- 都市計画道路のうち、戦災復興期に決定されて未着手のまま残っているものはないか
- 線引きが最後に見直されたのはいつか。人口推計の前提はどの年のものか
- 景観計画・歴史的風致維持向上計画を策定しているか。実際に運用されているか
- 立地適正化計画の誘導区域が、公共交通のネットワークと噛み合っているか
- 拠点が単心型になっていないか。合併した旧町村部が対象外になっていないか
参考文献・出典
本記事は、特別都市計画法、都市計画法、都市再開発法、景観法、地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律、都市再生特別措置法の各制定・改正経緯、および国土交通省ほかの公表資料をもとに構成しています。数値・年次は資料により異なる場合があります。実際の検討にあたっては、原典と当該自治体の公表資料をご確認ください。
次に読む
- 日本の都市・建築法制 百年の軌跡 ── 明治から戦後まで
- 都市計画法の全体像 ── 線引き・用途地域・開発許可の仕組み
- 新産業都市が残したもの ── 線引きが残した歪み
- シャウプ勧告から現在まで ── 法制度の側から見た戦後
都市計画道路の見直し、線引きの検証、立地適正化計画の住民説明についてのご相談を承っています。
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