日本の都市・建築法制 百年の軌跡 ── 線は、危機のたびに引き直されてきた
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この記事の要点
- 日本の都市法制は、大火・震災・スプロールという危機のあとに書き換えられてきた
- 百年をかけて、扱う単位が「点」から「線」、「面」、そして「域」へ広がっている
- いまの都市計画法・建築基準法の条文は、どの危機への答えだったかを知ると読みやすくなる
都市計画法を読んでいて、条文の順序が腑に落ちないことがあります。
制度は理屈から生まれたのではなく、起きてしまったことへの後始末として積み上がってきたからです。
この記事は、百年ぶんの法制を「どの危機への答えだったか」という軸で並べ直したものです。
危機のあとに、法律ができる








年表にすると、そろい方がはっきりします。都市大火のあとに防火の規制が模索され、急激な都市化のあとに1919年の都市計画法と市街地建築物法が生まれ、関東大震災のあとに特別都市計画法が置かれ、スプロールのあとに1968年の新都市計画法が来る。
制度が先にあって街を導いたのではありません。街で起きたことが、制度の形を決めてきました。この順序を頭に入れておくと、条文の並びが「なぜここにこれがあるのか」という形で読めるようになります。
明治 ── 燃える首都と、煉瓦の街


点(特定の街区)の改造から、面(都市全体)を管理する体系的なルールへ。課題はここで見えていた。
出発点は火事でした。1872年(明治5年)の「銀座の大火」で、首都の中心部が壊滅します。道幅が狭く、木造家屋が密集している。個々の建物がどれだけ立派でも、集まり方に問題があれば街ごと燃える。いまの言葉でいえば、これは建築の問題ではなく都市の問題です。
政府は不燃化に舵を切り、T・ウォートルスら外国人技師の提言のもと、銀座に煉瓦街を建設しました。
ところが、ここで最初の壁にぶつかります。「公共の利益」と「私的利害」の衝突です。莫大な費用がかかり、住み慣れた土地での商売や生活が圧迫される。計画は縮小を余儀なくされました。この構図は、いまの再開発や公共施設の再編でもそのまま繰り返されています。
そして、もう一つのことが分かります。特定の街区だけを作り替える「点」の改造では、都市全体の安全は確保できない。面として管理する体系的なルールが要る──明治のうちに、課題はすでに見えていました。
大正 ── 二つの法律が噛み合って、体系になる
旧都市計画法
日本で最初の「近代都市計画体系」が立ち上がる
東京だけに適用されていた「市区改正条例」の限界を破り、全国の大都市へ広げた。用途地域制・都市施設・土地区画整理を担う。
個別の建築物が道路(建築線)の境界を越えることを禁じ、市街地の輪郭を担保した。形態規制と建築線制度を担う。
その答えが、1919年(大正8年)に出ます。旧都市計画法と市街地建築物法が、同じ年に制定されました。
旧都市計画法はマクロを担います。用途地域制、都市施設、土地区画整理。東京だけに適用されていた「市区改正条例」の限界を破り、全国の大都市へ広げました。
市街地建築物法はミクロを担います。形態規制と建築線制度。個々の建築物が道路の境界を越えることを禁じ、市街地の輪郭を担保しました。
片方だけでは効きません。面のルールを決めても、個々の建物がはみ出せば街並みは崩れる。建物を規制しても、街全体の骨格がなければ方向が定まらない。この二つが噛み合ってはじめて、日本で最初の「近代都市計画体系」が立ち上がります。いまの都市計画法と建築基準法の関係も、この構図をそのまま引き継いでいます。
区画整理は、農地の技術から来た


農地との関係を切り離し、市街地整備の手法として独立した法律になる
土地収用(強制的な立ち退き)を避け、権利を保ったままインフラを整える。減歩と換地の原則が骨格になった

都市計画の道具のなかで、区画整理はとりわけ日本的です。出発点は都市ではなく、農地でした。
1899年(明治32年)の耕地整理法は、農業の生産性を上げるために、入り組んだ農地を交換し分け合うルールでした。この手法が1919年の都市計画法第12条で宅地開発へ援用されます。ドイツのアディケス法(Lex Adickes)などを参考に制度化されました。
1954年には農地との関係を切り離し、土地区画整理法として独立します。
核心は減歩と換地です。土地を買い上げて強制的に立ち退かせるのではなく、各人の土地を一〜二割ずつ提供してもらい、その分で道路や公園を生み出す。権利は保ったまま、位置と形だけを組み替える。土地収用を避けながらインフラを整える仕組みとして、これは相当に強力な道具でした。
関東大震災 ── 焼け跡に、線を引く


1923年、関東大震災。下町を中心に木造市街地が灰燼に帰します。
後藤新平による「帝都復興計画」のもと、特別都市計画法が置かれ、全焼失区域に対して大規模な土地区画整理が断行されました。
ここで区画整理が選ばれた理由は、実務的です。土地収用法で用地を買い上げれば、数十万人が生活の基盤を失う。区画整理なら、一〜二割の面積縮小という一時的な痛みと引き換えに、全員が公道に面する形で土地を持ち続けられる。
災害復興でいまも区画整理が使われるのは、この経験が効いているからです。手法の選択は、技術の優劣ではなく「誰が、何を、どれだけ失うか」の設計でした。
戦時へ ── 視野が都市から国土へ広がる
それでも、この広域計画という考え方が、戦後の国土開発の土台になる。
1920年代の計画は、住宅問題、スラムの解消、市街地の整備といった都市問題への対処が中心でした。
1930年代になると、防空と緑地が主題に入ってきます。アムステルダムでの国際会議の影響と防空演習が重なり、大都市の過密を抑え、衛星都市群を配置する構想が現れます。
1940年代には企画院が主導し、国土計画が立てられます。関心は「大都市問題」から「軍需工業の地方分散」と「生産力の拡充」へ移りました。
理念は「生活環境の保全」から「産業配置と防衛」へ変質しています。それでも、個々の都市を超えて広い範囲をまとめて計画するという発想は、この時期に定着しました。戦後の国土開発は、この土台の上に立っています。
戦後 ── 線を引いて、開発を止める


新都市計画法
「線引き」制度
昭和30年代からの高度経済成長は、急激な都市化とスプロール現象をもたらしました。農地のあいだに住宅が虫食い状に入り込み、道路も下水も追いつかない。
1968年の新都市計画法は、ここに「線引き」を持ち込みます。市街化区域は優先的かつ計画的に市街化を図る区域、市街化調整区域は市街化を抑制する区域。あわせて開発許可制度を創設し、地価の高騰を狙う無秩序な開発に法的なブレーキをかけました。
いま市街化調整区域の案件で頭を悩ませる場面はいくらでもありますが、その厳しさはこの時期の反省から来ていると分かると、条文の読み方が変わります。
百年で、扱う単位が広がった
| 時代 | 危機 | 象徴的な法規 | 空間の捉え方 |
|---|---|---|---|
| 明治 | 銀座の大火 | 防火建築規制 | 「点」燃えない建物の奨励 |
| 大正 | 急激な都市化 | 1919 旧都市計画法・市街地建築物法 | 「線」建築線と用途の分離 |
| 昭和(戦前) | 関東大震災・戦争 | 特別都市計画法・国土計画 | 「面」区画整理と工場分散 |
| 昭和(戦後) | スプロール現象 | 1968 新都市計画法 | 「域」線引きと開発許可 |
百年をかけて、「域」をまとめて手当てする仕組みへと組み替えられてきた。
並べ直すと、変化の方向がはっきりします。
明治は「点」でした。燃えない建物を一棟ずつ増やす。大正は「線」です。建築線を引き、用途を分ける。昭和の戦前は「面」。区画整理で区域をまとめて作り替え、工場を分散させる。そして戦後は「域」。線を引いて区域を分け、開発の可否を許可でさばく。
危機に対する応急処置から始まったものが、百年をかけて、広がりをまとめて手当てする仕組みへと組み替えられてきたということです。
いま読み直すと
- いま扱っている案件は、どの危機への答えとしてできた制度か
- その制度が想定していた条件は、いまも成り立っているか
- 「点」で足りるのか、「面」や「域」で考える必要があるのか
- 誰が、何を、どれだけ失う設計になっているか
- 公共の利益と私的利害の衝突を、どこで調整する仕組みになっているか
まとめ
人口が減り、施設が余り、空き家が増える。いま起きているのは、百年間ずっと前提だった「増える」ことが前提でなくなるという変化です。
線引きも開発許可も区画整理も、増える都市を制御するために作られました。縮む都市に同じ道具をそのまま当てられるのかは、これから問われるところです。
ただ、百年の経緯を追って一つはっきりすることがあります。制度は危機のあとに書き換えられてきた。いま起きていることも、次の書き換えの理由になります。
本記事は、日本の都市計画・建築法制に関する公表資料をもとに構成しています。年代や制度の細部については諸説あり、また現行制度は改正されています。実務での判断にあたっては、国土交通省 都市局などで最新の条文と運用をご確認ください。
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