清正の水の設計図 ── 城下町は、なぜ川を動かしたのか

地央 まちづくりの見取り図 熊本のまちづくり

出典:加藤清正の河川改修に関する公表資料・現地の記録より構成

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この記事の要点

  • 熊本の市街地の骨格は、加藤清正が三つの川を動かしたときに決まった
  • 河川改修は治水だけが目的ではない。防御・治水・舟運を一度に満たす設計だった
  • いまの都市計画の言葉に置き換えれば、区域区分・防災・物流を同時に解いた市街地開発事業にあたる

熊本の中心部を歩くと、道が妙な角度で折れる場所がある。

その多くは、かつて川が流れていた跡か、川を動かしたときにできた境界です。

この記事は、四百年前に引かれた「水の線」が、いまの街の形をどこまで決めているかを追ったものです。

加藤清正の城下町づくり
熊本を創った「水」の軌跡
白川・坪井川・井芹川の流路改修から読み解く、
土木のグランドデザイン
CHIOU 株式会社地央
図1 白川・坪井川・井芹川と熊本城タップで拡大

三つの川が入り乱れていた土地

Before 1588 ── 築城を阻む「暴れ川」
清正の入国以前、茶臼山(現在の熊本城)の周辺は、三つの川が入り乱れる不安定な地形だった。
蛇行する白川
現在の代継橋から長六橋にかけて北へ大きく湾曲。大雨のたびに氾濫し、敵船の接近も許した
合流する坪井川
白川に直接流れ込み、水流をさらに複雑にしていた
乱れる合流点
井芹川までもが下流(二本木付近)で白川と合流し、一帯は水害の常襲地帯だった
図4 改修前の三つの川タップで拡大

加藤清正が肥後に入ったのは1588年(天正16年)。城を築こうとした茶臼山──いまの熊本城のある台地──の周囲は、水の落ち着かない土地でした。

白川は現在の代継橋から長六橋にかけて北へ大きく蛇行し、大雨のたびに氾濫していた。坪井川はその白川に直接流れ込み、さらに下流の二本木付近では井芹川までが合流していた。三つの川が一か所に集まる場所は、そのまま水害の常襲地帯です。

いまの言葉でいえば、ここは市街化を検討できる土地ではありませんでした。城下町を置くには、まず土地そのものを作り替える必要があった。

目的は治水だけではなかった

五十四万石から七十五万石へ ── 掲げられた三つの目的
1588年の肥後入国時、この一帯は四つの河川が氾濫を繰り返す湿地帯だった。清正は城下町の基盤を築くため、絡み合う河川そのものを設計し直す。

河川改修は、つねに三つを同時に満たした
防御
巨大な自然の堀を形成し、南からの敵の侵攻ルートを遮断する
治水
蛇行を解消し、城下町を水害から恒久的に守る
舟運
火山灰を排除して水深を確保し、有明海と城下町を結ぶ物流の大動脈を創る
図2 掲げられた三つの目的タップで拡大

清正の河川改修を「治水事業」とだけ読むと、半分しか見えません。図が示すとおり、彼の工事は防御・治水・舟運の三つを同時に満たすものでした。

川を動かせば、堀になる。堀になれば、町の境界になる。境界ができれば、どこに武家を置きどこに商人を置くかが決まる。水深を確保すれば、船が入る。船が入れば、町の物流が成り立つ。ひとつの工事が、防災・都市構造・経済の三つを同時に動かしています。

三つの仕事

自然の地形を「城塞」に変える三つの仕事
熊本城を茶臼山に築き、その周囲に城下町を形成するため、清正は川そのものを移動させるという規格外の計画を立てる。
Mission 1 白川の直線化
蛇行を切り落とし、川を南へ押し下げる(南の防衛線)
Mission 2 坪井川の独立
白川から切り離し、城の足元を沿うように流す(内堀の形成)
Mission 3 井芹川の分離
下流の合流点を物理的に遮断し、独立した運河を創る(物流網の確保)
図5 三つの仕事タップで拡大

計画は単純ではありません。川そのものを移動させるという規格外のものでした。白川を南へ押し下げ、坪井川を白川から切り離して城の足元へ導き、井芹川を下流で分ける。三つの川に、それぞれ別の役割を与えていきます。

白川を南へ押し下げる ── 巨大な外堀

Project 1 ── 白川の直線化が生んだ「巨大な外堀」
現在の代継橋から長六橋にかけて北へ蛇行していた河道を締め切り、始点から終点までを直線的に掘り抜いて繋げた。
治水 氾濫リスクの解消
水流を直線化することで、城下町の予定地への水害を抜本的に防ぐ
防御 天然の外堀
南へ移った白川は、城下町全体を南の脅威から守る巨大な外堀として働く
新市街の誕生
旧河道と新河道のあいだに広い土地が生まれ、城下町の拡張が可能になった
図6 白川の直線化タップで拡大

まず白川です。北へ蛇行していた河道を締め切り、始点と終点を直線で掘り抜いて繋ぎました。

これで三つのことが同時に起きます。水流が直線になって氾濫の危険が下がり、南へ移った川が城下町を守る外堀になり、そして旧河道と新河道のあいだに、新しい土地が生まれた。

川を動かすと土地ができる。区画整理で道路を付け替えると宅地の形が変わるのと、発想は同じです。違うのは、動かしたのが道ではなく川だったことだけです。

四百年後に出てきた証拠

四百年を超えた証明 ── 備前堀の泥が語る「白川蛇行説」
「かつての白川は城の敷地内を大きく蛇行していた」という仮説があった。石垣復旧のために備前堀の水を抜いた際、その底から動かぬ証拠が見つかる。

北側 黒く砂のような土。
阿蘇の火山噴出物(ヨナ)
南側 灰色から茶色の土。
明確な「河川堆積物」
城内唯一の水堀の底に刻まれたこの土の境界線こそ、かつてそこが白川の右岸であったことを物理的に示している。
図3 備前堀の底に残る土の境界タップで拡大

「かつての白川は、いまの城の敷地内を大きく蛇行していた」。長く言われてきた説ですが、裏づけは簡単ではありませんでした。

石垣の復旧のために備前堀の水を抜いたとき、その底に土の境界線が現れます。北側は黒く砂のような土で、阿蘇の火山噴出物(ヨナ)。南側は灰色から茶色の、明確な河川堆積物。性質のまったく違う土が、一本の線を挟んで分かれていた。

城内で唯一の水堀の底に残っていたこの線が、かつてそこが白川の右岸であったことを示しています。工事の記録ではなく、土そのものが残していた痕跡です。

坪井川を城の足元へ ── 内堀にする

Project 2 ── 旧河道を利用した坪井川の「内堀化」
白川を南へ移したあと、清正は切り離された坪井川の水を、計算された経路で城の足元へ導く。
防御 鉄壁の内堀
坪井川を茶臼山の裾野に沿って西へ流し、城と町人町を隔てる内堀とした
地形の再利用
かつて白川が蛇行して削った窪地(旧河道)を、そのまま内堀の経路に使っている
舟運の下地
城の足元を流れる坪井川が、のちに城下町と海を結ぶ水路になる
図7 坪井川の内堀化タップで拡大

白川を移したあと、切り離された坪井川の水を茶臼山の裾野に沿って流します。城と町人町を隔てる内堀ができました。

ここで面白いのは、かつて白川が蛇行して削り取った窪地を、そのまま内堀の経路に使っていることです。掘る量を減らし、地形が持っている高低差をそのまま利用する。新しく作るより、あるものを読んで使うほうが安く早い。

石塘で流路を分ける ── 火山灰から水路を守る

Project 3 ── 「石塘」による流路の分離
最も複雑だったのが下流の合流点だった。清正は二本木付近に背割堤(石塘)を築き、白川・井芹川・坪井川を分ける。新坪井川は高橋(百貫港)まで一本の川として繋がった。

背割堤で水を分ける
舟運 火山灰からの保護
阿蘇由来のヨナ(火山灰)を含む白川から、坪井川を完全に切り離す
水深の確保
灰の堆積を防いだことで水深が保たれ、坪井川は大正期まで城下町と有明海を結ぶ運航路として機能した
図8 石塘による流路の分離タップで拡大

最も厄介だったのが下流の合流点でした。清正は二本木付近に背割堤(石塘)を築き、白川・井芹川・坪井川を分離します。

狙いは水量の調整だけではありません。阿蘇から流れてくる白川の水は、ヨナと呼ばれる火山灰を大量に含んでいます。これが混じると水路の底に灰が積もり、船が通れる深さを保てない。白川を切り離すことで坪井川の水深が保たれ、この川は城下町と有明海を結ぶ運航路として長く機能しました。

できあがった都市

After ── 水流に規定された要塞都市
河川改修が終わったとき、かつての氾濫原は、計算され尽くした都市へと姿を変えていた。
ゾーニングの確定
水流が武家町と町人町の境界を明確に定めた
三つの連動
防御・治水・物流のすべてが、ひとつの仕組みとして噛み合った
図9 改修後の城下町タップで拡大

改修が終わったとき、かつての氾濫原は、水の流れによって区分けされた都市に変わっていました。

水流が武家町と町人町の境界を定め、防御・治水・物流がひとつの仕組みとして噛み合う。用途の配分と、防災と、インフラの整備が、別々の事業ではなく一体で設計されている。現代の制度がむしろ苦手にしている部分です。

熊本城下町 河川改修のまとめ
改修の内容 防御の機能 治水と舟運
白川Shirakawa 蛇行を直線化し、南へ流路を変更 城下町全体を囲む南の「外堀」 氾濫原を新市街地化/敵船の侵攻ルートを遮断
坪井川Tsuboigawa 白川から切り離し、城の足元へ誘導 城郭を直接守る鉄壁の「内堀」 有明海へ繋がる城下町のメイン物流ルート
井芹川Iserigawa 石塘(背割堤)により白川・坪井川から物理的に分離 西側の天然の防衛線 白川の火山灰の流入を防ぎ、坪井川の水深を保つ
図10 河川改修のまとめタップで拡大

三つの川がそれぞれ何を担ったかを並べると、役割分担がはっきりします。同じ「川を動かす」でも、白川は外堀、坪井川は内堀と物流、井芹川は分離のための線と、目的が違います。

町の外へ ── 鼻ぐり井手

城下町の外へ ── 火山灰を御する「鼻ぐり井手」
清正の治水・利水は都市の中に留まらず、田畑を潤す灌漑にも及んだ。
現在も一部が残り、水を通している
課題
阿蘇から流れる白川の水は大量のヨナ(火山灰土)を含み、水路の底に積もる。深い水路では人力で掻き出せない
清正の答え
水路の岩盤を数メートル間隔で壁として残し、その下部に交互に穴(鼻ぐり)をくり抜いた
水力による自動排出
水が穴を抜けるときに渦を巻き、火山灰を巻き上げて下流へ押し流す
図11 鼻ぐり井手の仕組みタップで拡大

清正の仕事は城下町の中で終わりません。田畑を潤す灌漑にも同じ考え方が使われています。

白川の水はヨナを含むため、水路の底に灰が積もる。深い水路では人力で掻き出せません。そこで水路の岩盤を数メートルおきに壁として残し、その下部に交互に穴をくり抜いた。水が穴を抜けるときに渦を巻き、積もった灰を巻き上げて下流へ押し流す。人手をかけずに掃除が続く仕組みです。

力で抑え込むのではなく、水の力そのものに仕事をさせる。維持管理の担い手が細っていく時代に、この発想はもう一度読み直す値打ちがあります。

四百年後に残ったもの

四百年後の熊本を規定した設計
清正が肥後を治めたのは、実質わずか十五年ほどにすぎない。
それでも、彼が大地に引いた「水」の軌跡は、いまも熊本の都市骨格そのものとして生きている。
経済の基盤
氾濫原を制御し、表高五十四万石の土地から、実高七十五万石といわれる生産力を引き出した
水の都の土台
整えられた透水性の高い水田網が、水道水源を地下水でまかなう今日の熊本の土台になった
思想
自然と闘うのではなく、地形と水力を利用し尽くす。それが「土木の神様」と呼ばれた仕事の中身だった
図12 四百年後へタップで拡大

清正が肥後を治めた期間は、実質十五年ほどにすぎません。それでも、大地に引かれた線は残りました。

氾濫原を制御したことで生産力が上がり、表高五十四万石の土地から実高七十五万石といわれる力が引き出された。整えられた水田網は水を地下へ通し、いまの熊本が上水道の水源を地下水でまかなえる土台になっています。

そして、街路と河川の骨格そのものが、いまも当時の設計の上に乗っています。

現代の制度に置き換えると

  • 市街地開発事業 ── 川を動かして新しい土地を生み、そこに町を配置した
  • 区域区分・用途の配分 ── 水流が武家町と町人町の境界そのものになった
  • 防災まちづくり ── 氾濫原の制御が、都市を置ける前提を作った
  • 都市施設(河川・港湾) ── 坪井川が城下町と有明海を結ぶ物流路になった
  • 維持管理の設計 ── 鼻ぐり井手は、人手をかけずに続く仕組みとして作られた

まとめ

いまの制度は、治水は河川、土地利用は都市計画、物流は港湾と、所管が分かれています。分かれているからこそ、事業と事業のあいだに隙間ができる。

清正の仕事が読み返される理由は、技術の凄さよりも、ひとつの工事に複数の目的を同時に持たせたところにあるのだと思います。公共施設の再編でも、道路の付け替えでも、問い方は変わりません。この工事は、いくつの目的を同時に満たせるか。

本記事は、加藤清正の河川改修に関する公表資料および現地に残る記録をもとに構成しています。年代や事業の細部については諸説あり、また遺構の現況は変わることがあります。現地を訪ねる際は、熊本市など管理者の公表情報をご確認ください。

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